にっき

今日サイゼリヤに行こうとしたら駅前の公衆広場の音楽やってる人たちが

よく、タイムマシンがあったらどこに戻りたいとかそういう話するじゃんー、でもおれはそんなものいらない今が楽しいよー、今が一番楽しいし、あしたもそう思えるよー

って言っていて、わたしはそのチープというか単純すぎる考え方に首をひねった、わたしもそう思えるかなって思って、いろいろ思考を巡らせてみたけれどちょっとよくわからなかった。生きてて楽しい、ってよくわかんない。一応わたしは全力で毎日生きている。いつ死んでもいいように。でも楽しいかって言われたら、そうじゃないんだな。楽しくなんか、ないんだ、むしろ作品を作る苦しみ、××の×××××××てる諦念、そういうのばっかなんだな。サイゼリヤに行くのはやめた。

わたしは真っ黒だ。たぶん。

 

絵を描いた。絵の具がぐちゃぐちゃに混ざって、混ざって、汚い作品になってしまった。キャンバスが小さすぎた。くやしい、こんなものではまだ表現しきれない。何者にもなれやしないかもしれない。でもちょっとだけ、楽しかった。絵を描いている時や歌っている時の自分以外は自分とは思えなくて自分あるいは自分像が分裂している。だから描き続けるしかないので時間を見つけては教室に行っている、苦しい、でも生きている感じがする。さみしい、でも生きている感じがする。苦しんでるから生きてる心地がするんじゃなくて全力でやってるからなんだよ。

 

そんな中風邪をひいた、同居人がいたからまだよかったけれど卵とじうどんは自分が作った。起きて携帯を見たらラインでサンマルク行って来るね。彼はのんきにコーヒーを飲みに行っていた、この野郎。結局途中で同居人は帰ってきてわたしは二人ぶんのうどんを作るはめになった、馬鹿やろう。うどんの味は濃かった。二人ぶんを作ることになって、煮すぎて、水分が飛んでしまっていた。二人でテレビを見ながら濃い味の卵とじうどんをもそもそ食べた。風邪の時って何をすればいいんだろう、久々の休みで何をすればいいのかわからなくてごろごろしている。体温はさんじゅーろくどきゅーぶ、熱はないけどはやめのパブロンもポカリも効かなくて、まだ今日になっても風邪は治っていなくて、駅まで行ってやっぱり仕事を休んで帰ってきた。で、冒頭にもどる。

聖命

F4のキャンバスに絵を描いている。描く工程は苦しい。描くことで自由になれると岡本太郎は言っていたけれど、 自由になんか手が届かない。それでも筆を握る。色を塗り重ねる。わたしなんか、わたしなんか何者にもなれやしないのかもしれない、でも、今度こそ光が見たいから、ほんの少しでもあとちょっと光が見えそうだから絵を描いている。今年になって歌うことをやめた。限界を感じた。年齢的にも、精神的にも、わたしはステージに立てるほどの強さを持ち合わせていなかった。歌うことはただただ苦しかった。わたしの音楽は誰にも理解されない音楽だった。それでも歌いたかったから歌っていたのだけれど、夏が過ぎて、秋になって、またわたしは歌うことができなくなってしまった。下手くそでも歌っていた。理解されなくても歌っていたんだよ。似合わないステージに立って、汗水垂らして必死こいて歌をうたっていたんだよ。苦しかった。でも、苦しいことを続けるのはもうやめようと思った。中学生の頃の持久走を思い出す、全力で走って、後でバテて、息が苦しくてもう走れない。完走できたけれどわたしはビリだった。それとよく似ている。最初に全力出して燃え尽きてしまった。でも、それでよかったんだ。嘘つきでも、いくじなしでもわたしの音楽はかわいかった。わたしの音楽は強いものだった。爆発だった。文字通り心を込めて、叫ぶようにうたっていた。わたしは絵に対して強いこだわりがある。人目を気にして筆を折ってしまったこと。それ故に描けない日々が何年も続いた。だから、スタートラインにやっと立てたところで、わたしにとって光なんて、程遠いことも知っている。もしかしたら絵を描くことで救われないかもしれない。でも、いつか、いつか光が見えるかもしれない、そう思って筆を握っている。キャンバスに向き合っている。まだ自由なんて手にすることができない。できることを祈って、必死で向き合っているんだよ。生きている感じがする。やっとこの感覚がわかった。創作の過程の苦しみの中で、生きている心地が味わえることを知った。何万文字にも表現できない心のなかが、絵、でならできる気がする。絵を描くために精神も肉体もすべて捧げているから。筆を握った時、汗をかいて、キャンバスに絵の具を塗りたくっているから。みんな、そんなわたしを見て笑うかもしれない。馬鹿にするかもしれない。でもやっとつかめたこの感覚を、わたしは忘れたくない。だから絵を描く。筆を握る。キャンバスに向き合う。

Qsai

朝の山手線ってこんなに混んでるんだ、改札入って振り返った後君のいない虚しさを感じながら東京は田舎者と貧乏人を排除する街だと言われたのを思い出した。孤独、絶望、知ってる。でもほんとうは全部知らないのかもしれない、わかったふりなのかもしれないね。生きるって超大変、時間に追われてお金を使ってちょっとの時間にあれをして必死でいつも生きてて、生きてて。いつも生きるか死ぬかだけれど死ぬとか考えている余裕がない。生きて死んで生きて。今日の中華屋のにーちゃんの顔はやさしかった、こんなことでも救われるんだ。救われたいならしがみくしかない。生きるほうを選ばなくちゃいけない。選んだら、しがみつかなくちゃいけない。
絵なんてうつくしくないほうがいい。うつくしい絵なんてみたくない。吐き気がするほどの感情をぶつけてこい。絵が描けないから死ぬほど悔しい死ぬほど苦しい、唇をかみしめて血がダラダラになっている。死ぬほど、死ぬほどっていうけれどももしかしたら本当に死ぬかもしれない。あしたかもしれないしあさってかもしれない。生きるか死ぬかもっと真剣に考えなくちゃいけないんだよ。のうのうと生きてちゃいけないんだよ。私は筆を握っている。ぐっと筆を握ってる、悔しくて苦しくてぐちゃぐちゃになった感情のまま筆を握ってる、これが生きるってことなんだよ。生きてるのがわからないなら筆を握れ。わたしだってざまみろって言いたい。せこいことしてないでもっと全力でかかってこいよ。ばーか。

わたしを殺しなさい

大好きな季節、週4バイト、喫煙所を探して服を脱いでまた新しい服をきて、電車を待ってシヤワセを追いかけるためはたらいて。

シヤワセってなんだろー?(^_^)

 

シヤワセってとき、あったはずなんだけど、どういうものかわかんなくなるね。

 

一人ぼっちで家にいるとき、キッチンの水滴の音だとか、テレビの雑音だとかいうものが、こどくを満たしてくれる。去年花をもらったの。枯れた後も部屋に飾っておいた。枯れたあとも朽ちたあともきれいなの。こどくをうめてくれた。もらった花だから。花をもらったから。わたしはわたしをやめることはできないよ。

ソウとウツの狭間で

ソウのわたしもウツのわたしもわたしであるというのは、自分が分離したブッタイのようで気持ちわるい、ので、受け入れられなかった。ソウのときも、ウツのときも、気分がただお外のお天気が変わるときみたいなだけで、ソウでもウツでもわたしはわたしである。ソウもウツもそれをひっくるめた躁鬱病アイデンティティとして受け入れるしかない、そうしてまずい薬を、一生死ぬまで飲み続けなければならない、ということを突きつけられたとき、わたしは正直絶望した。治るということ、ただそれだけが光だったから。治すことを、目標にしていたから。今はまあいいやの気持ちで生きている、なにごともそうかもしれないけれど、まあいいやと思えることがだいじ。まさか自分が精神病むとはおもっていなかったよ、自分自身でうみだしたものだとおもっていたし。そうではなくて、それはマグマのように湧き上がってきたものだった、時限爆弾のように爆発しただけだった。絶望することはもうやめたの。歳とった人がまるくなる、というけれど、そこまでは言えなくても、わたし、なんだかやり過ごすことがうまくなったみたい。年の取り方がわかってきたみたい。もし躁鬱病のひとがいたとして、わたしは絶望しないでって言いたい。躁鬱病のきみがきみだから、ね。

神様のバカ

たばこに火をつける。忘却、気持ちいい。生きている。

救われたいから祈ったりするんだけど、神様はいるんだよ。汚れてる街、全部ぐちゃぐちゃの絵の具みたいに混ざり合っている。そこにいる。

雨で濡れて真っ黒になった歩道をあるいている。わたし、全部忘れてしまうの。きのうみた夢も、今日あるいた街のことも、この感情もこの感覚もすべて。あのね、方法はなんでもいいから自分を忘れることが気持ちいいんだよ。星の王子さまにでてきたあのアル中とか、みたいにね、忘れることで気持ちよくいてる。あの日江ノ島の海に消えたあの子みたいにね、きえちゃう前にね。ねえ、あの子はちゃんとシヤワセだったかな?ちゃんと救われたのかな?神様のバカ、って思っちゃう。

生きる

 

 

ラゾーナに行ってヘアゴムを買った、リボンのやつ。

紺色のリボンなので暑い夏にぴったりです。

少し伸びた髪を結う、ああ、今年もこの時期が来たんだね。

 

どうしようもなくなったとき、わたしは世界から振り落とされたような感覚に陥った、リボンでも首輪のひもでもいいから何か世界と、人々とわたしをつなぎ留めてくれるものが欲しかった。生きてる実感が欲しかった。

どうしようもなくなったとき人は自分をやめたがるほぼイコールでしにたくなる?

 

自分をやめようとしなくても自己不在の人って多いんでしょう、他人に夢を託しているから、もう諦めちゃっているから?

 

踊らされている。わたしたち。誰かが決めたルールや大多数の意見なんかに従って目隠しされて生きている。

お前はお前を生きなくちゃいけないし、わたしだって生きるほうを選んだから、わたしはわたしを生きなくちゃいけない。自分で掴み取らなくちゃいけない。

 

生きている。

生きるってことがどういうことかわかんないけど。

 

生きるって大変だね、自分の足で立たなくちゃいけない、過去も未来も同じだよ、食べ物食べて生きながらえる、只それだけなのに、必要であれば子孫を残したりとか、人間のやることなんて、ほんとうは只それだけなのに、生きる為におカネを稼ぐことはこんなにむずかしいの、忙しいの。シヤワセを追いかける為働く、「目的」すら忘れそうになって、ちょっと先に手を伸ばそうとして、でも忙しくて、ラインも放置で、働いてコンビニのご飯食べてコンビニ人間になっても、泥だらけになってデートにいけなくても絵が描ける時間がなくなってももうちょっと先の多分あるであろう、つかめるであろうシヤワセの為に、わたし、働く働く。

 

つなぎとめてくれるもの、見つかんなかった。

あるとすれば紐、みたいなかなしいものなんかじゃない、見たい情景があるし、会いたい人がいるし、胸を焦がす言葉や歌や絵があるであろうから、

生きるほうを選んだから、

もしこの先どうしようもなくなったとしても、わたしはわたしを生きなくちゃ。ね。