ソウとウツの狭間で

ソウのわたしもウツのわたしもわたしであるというのは、自分が分離したブッタイのようで気持ちわるい、ので、受け入れられなかった。ソウのときも、ウツのときも、気分がただお外のお天気が変わるときみたいなだけで、ソウでもウツでもわたしはわたしである。ソウもウツもそれをひっくるめた躁鬱病アイデンティティとして受け入れるしかない、そうしてまずい薬を、一生死ぬまで飲み続けなければならない、ということを突きつけられたとき、わたしは正直絶望した。治るということ、ただそれだけが光だったから。治すことを、目標にしていたから。今はまあいいやの気持ちで生きている、なにごともそうかもしれないけれど、まあいいやと思えることがだいじ。まさか自分が精神病むとはおもっていなかったよ、自分自身でうみだしたものだとおもっていたし。そうではなくて、それはマグマのように湧き上がってきたものだった、時限爆弾のように爆発しただけだった。絶望することはもうやめたの。歳とった人がまるくなる、というけれど、そこまでは言えなくても、わたし、なんだかやり過ごすことがうまくなったみたい。年の取り方がわかってきたみたい。もし躁鬱病のひとがいたとして、わたしは絶望しないでって言いたい。躁鬱病のきみがきみだから、ね。